SNS上での議論が荒らしとなるとき
(箇条書きでスミマセン、色々と模索中です)
・掲示板などクローズドなSNSで議論が提起され、それが白熱しているとき、議論を提起した本人は建設的な意見交換ができていると思っていても、実は掲示板の(必ずしも議論厨ではない)他の住人によって、必死に接待してもらっていることがしばしばある。
・それに気づかず議論を進めていると、ある瞬間、必死に付き合ってくれていて限界に至った誰かが「いい加減にしろ!」と沸騰する。議論を提起した側は、議論が相手にとって精神的な疲弊を伴っているとは思っていないので、相手の突然の感情的な対処に戸惑う。結果、ささくれだったログと空気感だけが残り、感情的なこじれだけが積もってしまう。
・私が思う「議論」とは、主張の異なる二者が向き合い、誠実に自らの考えを開陳し、相手の反応を受けることによって、自らの主張を検討・反省し、時によっては止揚して、自らをアップデートさせていく営みであるべきである。
・自らを説明するばかりで反省がないものは「愚痴」であろうし、相手の話を拒絶し論破してしまうのは「マウンティング」である。いずれにせよ、議論の前と後によって、自らの主義主張に変化がないのならば、それは意味のある議論とはいえない。
・そのような「意味のある議論」が成り立つためには、「あなたに理解されなくても私は私の意見が正しいと思っている」という自己肯定感と、「あなたがあなたの意見を正しいと思っていることを否定しない」という尊重の姿勢が必要である。これがズレて、「あなたに私の意見が完璧なことを認めて欲しい」となったり、「あなたの考えが間違っていることを私は論証する」という姿勢が見えると、上記のような議論は破綻し、罵り合いになるだけである。
・議論は、その起こりからして「あなたと私の違いを指摘する」ことから始まる。これには、和を重んじる集団の中からは必然的にストレスが生じる。よって、ストレスなく平穏に過ごす場合の最適解は「議論を提起しない」になる。
・そもそも、現状で満ち足りている人にとって、あなたと私の違いを言語化する「議論」は必要ないのだ。では、議論を提起する人はなぜ「あなたと私の違いを指摘し」たがるのだろうか。
・一口に言ってしまえば、「満ち足りていない」からであろう。では何に満足していないのか。
・ひとつは自己肯定感だろうと思う。ままならぬ現実や自意識に対して「これでいいのだ」という結論を見出していないので、遮二無二に自らの意識を純化させようとしてしまう。その「修行」の中に「議論」があり、「議論」に巻き込まれた他人が犠牲になる。
・もう一つは、自らの中にある万能感が解消しきれていないことがある。「私はここまで立派なことを考えられている。こんなことを考えていないあなたたちよりスゴイんだ」という優越感を誇示してしまう。それは、露骨に表現しなくても、議論の中でやり取りを重ねる中でにじみ出てしまう。それは他人の尊重からは程遠い態度になってしまう。
・一つの解決策は、そのような議論を掲示板でしないことである。顔や思想をある程度知り、一人の人格として尊重できるような一人の他者と議論すれば、こちらが横柄になる事も、向こうが接待に疲弊することも回避できるのではないか、と思う。
・自分が議論を起こしたくなる時、その裏側には尊大なプライドか、他者に対する敵愾心が隠れている。そのことに自覚的でありたい。
学生生活を閉めるにあたり
今日は2021年の3月31日。明日から社会人です。
思えば、今までずっと、その時々の自分にうすぼんやりとした不満を抱きながら、「大学生になったら変わるだろう」「大学院生になったら変わるだろう」と、未来の自分にあらぬ妄想を抱いていたように思います。
例えば、2年前の今頃は、大学院生になったら服装にお金をかけるようになるだろう、なんて思っていました。結果は散々なもので、今も2年前と同じズボンを履いていたりします。研究室の同期には「物持ちがいい」なんて言われましたが、まぁ……
今だって、「社会人になったら身だしなみを気にするだろう」「社会人になったら漫画を描くだろう」なんて思っています。そんなことないのにね。
自分が自分である以上、この生き方に劇的な変化が、一瞬で起こることは、もうないのでしょう。漫画を描くのも、おしゃれをするのも、「そういう人間になりたかった」という、ぼんやりとした憧れのまま、それを実現できない凡庸な大人として、年を重ねていくんじゃないでしょうか。
引っ越してはや5日ほど。絵は一枚も描いていません。きっとこのまま漫画を描かない大人になっていくんでしょう。ただ「漫画を描いている人になりたい」という思いを抱えたままで。これじゃあ立派なコンプレックスだ。
漫画、どうやったらかけるんでしょうね。
当面の目標は、朝起きられるようになること、遅刻しないことです。
ではまた。
6年越しにピンポン the animationにはまる
何のきっかけだったか、ツイッターで懇意にしているオタクが「ピンポン the animation」に言及していたので、久々にamazon primeで見返した。
一昔前は違法アップロード動画をanitubeで探していたものが、今は公式の配信で探せるものだから、大変ちゃんとした時代になったものだと思う。
「ピンポン the animation」は2014年にフジテレビノイタミナ枠で放送された深夜アニメである。
このOPが凄まじいので、本編にはついていけなかった人もOPだけでも見て欲しい。
6年前、まだ実家にいたときにこれをリアタイで見ようとしていたことがあった。
当時はまだくそ田舎の地上波しか見られなかったので、摂取できるアニメがノイタミナ枠くらいしかなかったのだ。
初見ではついていけなかった。あまりにもクセの強い作画や、ストーリーを飾る男子高校生たちの生々しい挫折が、ウブな高校生には受け入れられなかった。
歳を重ねて2020年となり、高校生には戻れないし戻りたくもないという身分になって、やっと見返すことができた。
今になって見返すと、とんでもないことをよくやっているのだと思った。
特筆すべきことは、何といっても作画だろう。
歪みまくった手書きの線は、原作漫画のタッチを見事に再現している。
きれいでシンプルな流行りのアニメ絵とは対極にある。
さらに、人物の動き、卓球のラリーに合わせて線が歪む。
卓球台さえ歪む。
しかしこれが不思議と苦にならない。これが、四畳半神話大系やデビルマンで見られた湯浅政明のマジックなのだ。
(キャラデザについて脱線。そもそもであるが、こんにちのいわゆる萌えアニメ、萌えキャラというものは、目が異常に大きく、髪の色でキャラを立てるというデフォルメがされる。あるいは女性向けであれば、顎が細く、目が切れ長に描かれる。
一方ピンポンでは、目と顔のバランスがリアルの顔に近く、髪の毛の色も普通である。このような傾向は劇場版の攻殻機動隊や、大友克洋のAKIRAに近いのではないだろうか。個人的にはこのようなアニメも好きなのだが、まぁ売れないので数が少ない。萌えないアニメはマネタイズし辛いのだ)
この拙文では、このアニメの良さや意味を語ることは不可能である。
他人の言葉を借りれば、この作品は「スポ根・ヒーロー・友情」をテーマにしたものだという。
リアタイで見ようとしたときは、この「スポ根」の要素しか分からなかったが、今になってみると、この「ヒーロー」というテーマが強く心に残る。
ピンチの時はオイラを呼びな!
心の中で三回唱えろ!
ヒーロー見参、ヒーロー見参、ヒーロー見参!
そうすりゃオイラがやってくる!
ピンポン星からやってくる!
ヒーローは世界を救うのだろうか。いや、「ピンポン」のヒーローは世界を救わない。もっと単純で、わがままで、適当だ。正義など考えてはいない。
それでも人を救うのだ。
ヒーローはスマイルを救い、ドラゴンを救った。
この救いの物語が、6年越しにこの癖の強いアニメが私にくれたものだった。
余談だが、音楽も良かった。
卓球の世界と見事にマッチしている。
なんでこんなに気持ちがいいのだろうか。
信号待ちでエンストするスーパーカブC50には添加剤を入れよ
本日、電車に乗って大阪のバイク屋まで行ってきた。
このお店である。
【エビスバイク大阪店】
https://www.goobike.com/shop/client_8701539/
そこで聞いたお話。
「50ccのバイクで減速時にエンストするようなバイクには、ガソリンに添加剤を混ぜるとよい」
ということである。
私の乗っているスーパーカブC50だが、たまに信号待ちでエンストを起こすことがあった。
特に下り坂の下で停車すると、スコンとエンジンが落ちてしまう。
キックでも回復しないこともあり、私はこれを夜な夜な夢に見るほど恐れている。
そのことを店主に相談してみたところ、「バルブにガソリンの煤が溜まって汚れているのではないか」というアドバイスをもらった。
ホンダやスズキのバイクにはよくあることらしいが、ずっと走っていると、ガソリンの燃焼によって生まれる不純物が、エンジンの各所に汚れとして溜まり、燃料の流れを阻害するらしい。
この現象は、最初のうちは汚れも少なく、何とかエンジンを再スタートできるのだが、やがて汚れが致命的なほどにたまると、二度とエンジンがかからなくなる。
恐ろしいことだ。
この現象に対して、添加剤というものがあり、ガソリンの流れに乗ってこびりついた汚れを除去してくれるというのだ。
つまりこの添加剤は、エンジンに溜まった致命的な汚れを除去し、延いてはバイクの長寿命化に貢献するのだ。
店主さん曰く「エンジンのお薬」らしい。
たとえばこんなもの↓
この添加剤は、ガソリンにちょこっと混ぜるものだ。
商品説明を引用すると、
燃料に添加するだけで燃焼室・吸排気バルブ・インジェクターなどに堆積したカーボン・ワニス・ガム質などを除去し、新車時のエンジン性能を取り戻します。
ということらしい。
あんまりふんわりと書くから怪しい? 私も原理をよく分かっていないし、半信半疑で書いてるからしょうがない。
興味があれば、amazonのレビューやそのほかのもっと詳しいブログを参考にしてほしい。
【原付バイクのエンスト予防にはフューエルワン!】
https://gentuki.com/f-1-wakos/
とにかく、私がたまに遭遇しているこのエンストは、この添加剤によって改善かもしれないということが分かった。
これまで何度かエンストをやらかしてはなんとかかけなおしてきた私の原付の限界が来る前に、さっさと入れてやらねばならない。
ダイパのリメイクは出ない
今日はポケモンの新作発表会があった。
実は先週にもあったのだが、その場で来週にもうひとつお知らせがあると発表され、みんなじらされて待っていたのだ。
みんなは何を期待していたんだろうか。
私は「ポケットモンスター ダイヤモンドパール(+プラチナ)」のswitch版リメイクを期待していた。
その期待は少なからぬ人が抱いていたようで、今日は朝からツイッターのトレンドに「ダイパリメイク」という言葉が入るほど、期待の盛り上がりをみせていた。
今夜公表された、新しいポケモンのゲームはこれである。
【公式】『Pokémon UNITE(ポケモンユナイト)』初公開PV
【公式】『Pokémon UNITE(ポケモンユナイト)』初公開PV
ポケモンを使ったオンラインチームバトル? のようなゲームであることが見受けられる。
配信内では、ゲストとしてタレントやYoutuberが参加してプレイ実況をしており、チームで遊ぶ形式のものであるという印象を受けた。
(非常にYoutuberウケしそうだなという眺めだった)
ダイパのリメイクを期待していた身としては、予想の大外れも大外れ、しかも「一人でこつこつポケモンをあつめ、マップをクリアしていく」というプレイスタイルからは対極にある、オンラインチームバトルのゲームだった。
どうして株式会社ポケモンは、ダイパのリメイクではなく、新しいチームバトルのゲームを出すのだろうか? 適当に考えてみる。
ひとつは、「このスタイルが2020年のスタンダードな(よく売れる)スタイルのゲームだ」ということかもしれない。
今や、「ゲームをする」という行為は一人で家に引きこもって完結するものではなくなった。
私自身はあまりゲームはしないのだが、友人の様子では、プレイ動画をスクショしてtwitterに上げる、discordでボイチャしながら大乱闘をする。それぞれの家からつないでFPSに興じる…等、「つながっている時間を過ごす」ことがゲームの楽しみのひとつになっているようだ。
その楽しみを最大化するなら、それが「同時接続のオンラインバトル」を導くのは自然な流れなのではないか。
もうひとつは、「日本のガチ勢、ポケモン廃人にセールスしても儲けが出ない」ということなのではないか。
ポケモンがPokemonになったように、私たちが子供時代に熱中した「ポケモン」は今や世界を相手に勝負するコンテンツである。
それ自体は誇らしいことだ。
しかし、規模が大きくなったということは、それだけマスな顧客層を相手にしなければならないということと同義である。
日本にポケモン厳選までするようなガチ勢が10万人いたとして、一方世界中にライトにポケモンを遊びたい人間が1000万人いたとしたら、誰が考えても、1000万人を相手に商売をするべきということになる。
私が考えられた理由は二つだけだ。しかもこの二つも、特に冷静な考察に裏打ちされたわけではない。
オタクのたわ言だ。
何か思う人は、好きに反駁するべきだと思う。読む自由も、書く自由も、あなたのものだ。
迷惑をかけない限りにおいて。
正直な胸の内を明かせば、ダイヤモンドパールのリメイクが欲しかった。
私が小学生の頃、ダイヤモンドパールが出た。
友達がその世代のポケモン一覧の下敷きを持っており、私は彼の隣の席からそれを眺めていた。
スポーツ少年団の遠征の帰り、友達がDSでディアルガを捕まえているのをのぞき込んでいた。
ちなみにこれは最近ハマったギラティナ戦のBGM
(ピアノでこれを弾いている人がいるらしい。何者??)
【ポケットモンスターPt】ギラティナ戦BGM 【30分耐久】
私の家は、テレビゲーム・携帯ゲームを買い与えない家庭だった。
今私はnintendo switchを持っている。
大人になってからテレビゲームを買ったが、どうやって熱中するのか、私にはまだよく分からない。
Let's go ピカチュウを買ったが、途中で止まったまま積んでしまっている。
ダイパのリメイクは出ない。
子どものときゲームができなかったこと、映画でしかポケモンを知らなかったことについて、またいつか稿を改めて書こうと思う。
映画全通しているわけではもちろんないが、好きなのは「ミュウツーの逆襲」だ。
絵を描くことの「楽しい」が分からない
お久しぶりです。
絵を描くことに関して、「楽しい」という感情、「したい」というモチベーションが分からない。
自分の心の動きが分からなくなってしまった。
それでいて、絵を描こうとするときに「私は絵を描きたいとは思っていない」という実感だけは感じられる。
そのきっかけは、毎晩ソシャゲとtwitterとyoutubeをだらだらと見ることしかしていなかったことに焦りを感じていたことだ。
twitterを見ていると、定期的に絵を描いてはツイートする人がいる。
中には半年ほど前に絵を全くの初心者から書き始め、今では200件のいいねをつけられるような一人前の絵描きとして認知されているような人もいる。
この半年、私はただだらだらとタイムラインを眺めていただけなのに、かたやイラストのスキルを成長させ、人生を充実させている人がいる。
この差は何だ。
彼らが羨ましい。
絵描き達の輪の中に入りたい。
絵描き達のコミュニティの中に自分の居場所を作り、同人誌に寄稿したりできるようになりたい。
これまで散発的に絵を描こうとし、三日坊主でやめてしまうことは何度かあった。
しかし今回はいけるのではないか。そんな、根拠のない希望があった。
そんな動機で、お絵かきソフトをタブレットにインストールし、好きなアニメの好きなキャラを描いてみようとした。
真っ白なキャンバスを前にして、何を描いたらいいのか分からなくなり、手が止まる。
ポーズは? アタリは? 塗りは?
分かるわけがない。絵を描いてきてこなかったのだ。
とりあえずまるを描いて、それっぽい輪郭を引いてみる。
線さえガタガタの、小学生のラクガキみたいな絵ができた。
そこで挫折した。
絵を描いたことで、自分が自分の絵を好きになれないことに気が付いてしまった。
私は絵を描くことを「楽しんで」いるのか?
絵を「描きたい」と思っているのか?
正解は「否」だ。なぜならば、私が求めていたのは、合同誌に寄稿するという「つながり」であり、オタク界隈における地位だけだったからだ。
こんな絵が描きたい、そんな絵が描けるようになるためには多少のストレスも乗り越える、という精神的な発展の順番を踏むことができなかった。
それでも絵を描かなければならない。
「合同誌に参加するような立派な人になりたい」という自己顕示欲が「絵を描く」という営みをただの踏み台に堕とし、「絵を描かなければならない」という鎖になった。
絵を描いても、何も楽しくない。
むしろ、完成した絵を見て、自分はなんと無駄なことに時間を使ってしまったのだろうと思ってしまう。
私は何をしているのだろう。
きっとどこかに「あるべき絵描きの態度」というのがあって、今を時めく絵描き達はそれに適合した人たちで、私は間違った態度で絵を描くことに臨んでしまったのだ。
この思い込みさえ歪んでいることは分かっている。だがこう思い込まずにはいられない。
私は間違ったオタクだ。私は間違ったオタクなんだ。
こうつぶやくとき、絵を描かず、ただ消費するだけでありながら、その態度を受け入れている人たちが目に入らなくなる。
絵を描かなければならないのに、絵を描くのが苦痛なのだ。
いや、絵を描くのを苦痛と言い切ってしまうのは間違っている。しかし、そう思わなければ、絵が上手に描けない自分と付き合っていくことができない。
典型的な0か1思考だ。
頭が痛くなってきてしまった。
二年前も、こうやってMikuMikuDanceから離れていったように思う。
私は何をしたら幸せになれるのだろう。
ガラパゴス化する日本アニメ、思春期をやめられないオタクたち。
https://globe.asahi.com/article/13185352
朝日新聞Globe+ というメディアに、「この世界の片隅に」の監督を務めた片淵須直監督のインタビューが載っていた。
曰く、
主な日本アニメはティーンエイジャーを過ぎた年代(後期思春期世代)をターゲットにしている。
なぜならこれらの世代層は穴場であったためである。
しかしほとんどすべての日本アニメがこれらの世代をターゲットにしてしまい、結果として傾向が同じものになってしまっている。
これは、大人をターゲットにして作品を作っている世界のアニメーションの潮流に反している。
片淵監督は、日本アニメが後期思春期世代向けのものばかり作っている現状を「不健康だ」といい、その状況を「ガラパゴス化」していると指摘した。
* * *
所感
・ある対象に「ガラパゴスだ」というとき、そこには「語り手にとって望ましくない進化を遂げた」「先がない」というニュアンスが感じられる。
・ところどころ感情的なな文章が散見され、読んだ人間を扇動する危険があるだろうなと思った。気になったのは、例えば以下のような文。
・・いま後期思春期って40代まで含まれるんです。世界的に!
・・僕も審査員を海外でやったことがあるんですけど、「日本のアニメは面白いね」と言っていた審査員が、「だけど賞はやれない」「みんな同じでしょ」と言うんです。
・・日本のアニメが出てきた途端に、なんか気恥ずかしい気持ちになって、海外の審査員の人が「またか」って言う。
・・クレヨンしんちゃんの原作の漫画には両親のベッドシーンがありますよ。
これらの文章は、オタクのプライドを刺激するかもしれない(私はされた)。なぜ刺激されたのか、いつか考えてみたい。
・この記事中で、監督は「子供向けアニメには新規参入ができない」といいながら「子供向けアニメを誰も作らないのはおかしい」と述べている。いまいちつながりがよく分からなかった。この辺は聞き手の記者の落ち度なのでは……(棚上げスタイル)
* * *
考察
・日本アニメが「ガラパゴス化」している、後期思春期層向けのものばかり作っていることの問題は何か。
・・海外のコンペで評価されないから、というのはあまりに安直すぎる。
・・問題は、みな同じようなものばかり作るようになってしまった、ということなのではないか?
・大人向けのアニメって何だろうと考える。そもそも、"大人向け"とは何か?
・・記事中の言及では、ポルポトを扱ったアニメなどが”大人向け”アニメの代表として述べられている。
・・社会問題を扱えば"大人向け"と言えるのならば、日本アニメには地下鉄サリン事件を扱った「輪るピングドラム」がある。
・・片淵監督の「この世界の片隅に」は、"大人向け"に作られたという。記事中では「ベッドシーンを入れたこと」が例として挙げられている。ここでいう"大人向け"とは、大人にしかわからない演出があったり、ある程度知識や経験を積まなければ理解も共感もできない要素が入っていることにあるのではないか。