雲の見える海で

てまりという一人のオタクの備忘録。けもフレが多め。「とよはた雲」というサークルがあるとかないとか。

「セックス依存症になりました」に見る暴露、心の弱さ

漫画「セックス依存症になりました」をご存じだろうか。

自分もtwitterから流れてくるまで知らなかった。3月3日まで全話公開です。

 

あらすじはこうだ。

漫画家崩れの主人公は彼女と修羅場を演じた後、街中でセックスの幻想に苛まれるようになる。

いてもたってもいられなくなって駆け込んだ精神病院で主人公は「セックス依存症」と診断され、「セックス依存症」の治療を始めていく。

やがて病院での治療が終わり、自助サークルでのグループセラピーに通うことになるのだが……

 

自助サークルでの重要なイベントとなる「暴露」について噛みついてみようと思う。

私も暴露をしてみたいと思ったが、私はまだそこまで人を魅せられるような破滅的な人生を送っていない。たぶん、もうちょっと人生が行き詰ってから頼ることになるのだと思う。

 

そもそも「暴露」することは、つまり自分の恥ずかしい過去をひけらかしてしまうことは、恥もあることながら、自分の精神を極めて危うい状態に陥れるだろうと思った。

それは自分の弱さを外界にさらすことであり、そのグループにいる人間に「こんな自分を受け入れてほしい」というメッセージを強烈に発することだ。

そこで受け入れてもらわなかったら、自分の尊厳はおしまいになる。ネットで「津島はセックス依存症の変態!」と晒され、中傷されるように。

一方で受け入れてもらえたとしても、自分はそのグループと「自分を受け入れてもらえた」というウィットな関係を作ることになる。

それでは、依存先が「セックス」から「グループ」に変わっただけの話なのではないか?

 

現に主人公も、グループが提示する論理に完全に信奉し、初めて訪れた人に「神」を力説してしまうほど影響を受けてしまっている。

これはもはや「宗教」である。人を洗脳し、動員する組織としての「宗教」ではないか。

 

この漫画の中では、依存症や認知のゆがみを抱え、グループに入る「弱いサイド」の人間は非常に人間的に描かれる。一方で元カノや漫画家など、健常と思われる「強いサイド」の人間はドライに、まるで「弱いサイド」の人間をただ痛めつけるだけのように描かれている。

それらの「強いサイド」の人間の攻撃から自分たちを守るために「グループ」があり、グループのなかに実践的に「神」を生み出している。

 

果たしてそれは正しいのか。真に人間に対する理解が行き渡るのであれば、「弱いサイド」や「強いサイド」の人間などなく、ただみんなが同じように傷を負っているのではないか。

「弱いサイド」の人間は、努力して「強いサイド」の人間に成長しようとしなければならないのではないか? そもそも「弱い」「強い」などなく、みな健常か、みなどこかしら傷を負っていると考えるのが正しい世界の理解の仕方だろう。ならば「弱い」からグループセラピーに通ったり神を信じたりして自分を立て直す、という行為は、「強い」人間からすれば極めて特異な行為に受け止められるのが自然である。それは普通に受け入れられないだろう。

 

男の純情は犬も食わない

 

この絶望が痛いほど分かる。私とて高校で初恋が惨めに終わって以降ロクな恋愛には恵まれず、その無念を毎晩二次元エロ絵にぶちまけている。容姿はますます醜くなり、人の愛も、自分の尊厳も削られつつある。いずれ見る目もあてられない、きもくて金のないおっさんになるだろう。

2年前、恋愛できないことで自棄になり、一度だけ出会い系サイトに登録した。一人の女の子とセックスする約束をしたが、逢引する二日前に相手がネットから消えた。

私は幸いにしてなんの依存症にもかからず、ぎりぎり精神病院のお世話にもならず、こうして健常者の皮をかぶって(かぶっているつもりで本当に健常者なのかもしれないが)今も生きている。

 

正直、それまで地獄のような日々を過ごしたのだろうが、結果的に救われ、穏やかな日々を得て、漫画まで認められるようになった津島さんがずるくてたまらない。

破滅するまでもなく、ただ「底をつく」のを待つだけの私の人生はいつか救われるのだろうか。