雲の見える海で

てまりという一人のオタクの備忘録。けもフレが多め。「とよはた雲」というサークルがあるとかないとか。

「セックス依存症になりました」に見る暴露、心の弱さ

漫画「セックス依存症になりました」をご存じだろうか。

自分もtwitterから流れてくるまで知らなかった。3月3日まで全話公開です。

 

あらすじはこうだ。

漫画家崩れの主人公は彼女と修羅場を演じた後、街中でセックスの幻想に苛まれるようになる。

いてもたってもいられなくなって駆け込んだ精神病院で主人公は「セックス依存症」と診断され、「セックス依存症」の治療を始めていく。

やがて病院での治療が終わり、自助サークルでのグループセラピーに通うことになるのだが……

 

自助サークルでの重要なイベントとなる「暴露」について噛みついてみようと思う。

私も暴露をしてみたいと思ったが、私はまだそこまで人を魅せられるような破滅的な人生を送っていない。たぶん、もうちょっと人生が行き詰ってから頼ることになるのだと思う。

 

そもそも「暴露」することは、つまり自分の恥ずかしい過去をひけらかしてしまうことは、恥もあることながら、自分の精神を極めて危うい状態に陥れるだろうと思った。

それは自分の弱さを外界にさらすことであり、そのグループにいる人間に「こんな自分を受け入れてほしい」というメッセージを強烈に発することだ。

そこで受け入れてもらわなかったら、自分の尊厳はおしまいになる。ネットで「津島はセックス依存症の変態!」と晒され、中傷されるように。

一方で受け入れてもらえたとしても、自分はそのグループと「自分を受け入れてもらえた」というウィットな関係を作ることになる。

それでは、依存先が「セックス」から「グループ」に変わっただけの話なのではないか?

 

現に主人公も、グループが提示する論理に完全に信奉し、初めて訪れた人に「神」を力説してしまうほど影響を受けてしまっている。

これはもはや「宗教」である。人を洗脳し、動員する組織としての「宗教」ではないか。

 

この漫画の中では、依存症や認知のゆがみを抱え、グループに入る「弱いサイド」の人間は非常に人間的に描かれる。一方で元カノや漫画家など、健常と思われる「強いサイド」の人間はドライに、まるで「弱いサイド」の人間をただ痛めつけるだけのように描かれている。

それらの「強いサイド」の人間の攻撃から自分たちを守るために「グループ」があり、グループのなかに実践的に「神」を生み出している。

 

果たしてそれは正しいのか。真に人間に対する理解が行き渡るのであれば、「弱いサイド」や「強いサイド」の人間などなく、ただみんなが同じように傷を負っているのではないか。

「弱いサイド」の人間は、努力して「強いサイド」の人間に成長しようとしなければならないのではないか? そもそも「弱い」「強い」などなく、みな健常か、みなどこかしら傷を負っていると考えるのが正しい世界の理解の仕方だろう。ならば「弱い」からグループセラピーに通ったり神を信じたりして自分を立て直す、という行為は、「強い」人間からすれば極めて特異な行為に受け止められるのが自然である。それは普通に受け入れられないだろう。

 

男の純情は犬も食わない

 

この絶望が痛いほど分かる。私とて高校で初恋が惨めに終わって以降ロクな恋愛には恵まれず、その無念を毎晩二次元エロ絵にぶちまけている。容姿はますます醜くなり、人の愛も、自分の尊厳も削られつつある。いずれ見る目もあてられない、きもくて金のないおっさんになるだろう。

2年前、恋愛できないことで自棄になり、一度だけ出会い系サイトに登録した。一人の女の子とセックスする約束をしたが、逢引する二日前に相手がネットから消えた。

私は幸いにしてなんの依存症にもかからず、ぎりぎり精神病院のお世話にもならず、こうして健常者の皮をかぶって(かぶっているつもりで本当に健常者なのかもしれないが)今も生きている。

 

正直、それまで地獄のような日々を過ごしたのだろうが、結果的に救われ、穏やかな日々を得て、漫画まで認められるようになった津島さんがずるくてたまらない。

破滅するまでもなく、ただ「底をつく」のを待つだけの私の人生はいつか救われるのだろうか。

 

 

C97感想戦 2/4 - キュルル合同

 

 

このエントリ の続き

記憶が薄れる前に、合同誌の感想を書き残しておこうと思う。

 

C97からだいぶ日が経ち、感想を書いても旬を外しているだろうという気分に苛まれている。なんで感想を書こうとしていたんだっけ。

ひとつは、真面目に同人活動に(書く側でも、読む側でも)取り組んでみたいということ。

もうひとつは、感想を書けば、作家さんは嬉しいんじゃないだろうかということ。

 

ひとつ課題があり、それは買った同人誌に対して網羅的に感想を書くと、私が相当疲弊してしまうだろうということである。

かといって何もしなければ、今夜もまた、何もしない夜になってしまう。

毎晩訪れるこの無気力感については、いずれ掘り下げてみたい。今夜もこうしてテレビとツイッターを眺めるだけの夜が過ぎようとしていた。一念発起してこれを書いている。

 

 

キュルル合同~ふたつのみれにあむを超えて~

・2の混乱の中で、若干アンタッチャブルになってしまったキュルルや2世界観にフォーカスした合同誌。コンセプトがめちゃめちゃいいなと思って、予約して手に取った一冊である。

・頒布会場にいたかばんさんコスの人のコスプレがとても良かった。

 

特にいいなと思った作品をいくつか上げようと思う。釈明しておくが、すべての作品に感想が書けないのは、偏に私の気力と好み・読解力の問題であって、作品に優劣はない。すべからく、存在しない名作よりも出た本の方がエライのだ。

感想を書きながら思ったけれど、寄稿者のレベル高すぎではないか。

 

「たとえ忘れてしまったとしても何処かにのこっているはずさ」(はづきガレット)

・キュルルが2000年前の記憶をぼんやり思い出す話

・目に「replay」が入ってるの、漫画だからできる演出だよなって思いました。

 

「二人のキュルル」(沼底なまず

・キュルルが2000年前の「少年」と輪っか(JS版)でつながる話

・2000年前の「少年」がセルリアンにどろどろと飲まれていく不気味さが好きです。いや、そもそも「少年」を取り込んだセルリアンの残留したカケラだったのかもしれない。そういや前ツイッターで「フウチョウはキュルルのイマジナリーフレンドだ」っていう読み解きがあって、なるほどそういう解釈もあったなぁと。最後のコマのこのサーバルは……誰なんだ?

 

「たいようのきおく」(はとり)

 

・3人の旅の途中でキュルルが倒れる話

・どうしようもなくなってキュルルを罵倒するしかない、カラカルのいじらしさが好きです。キュルルも無印のかばんちゃんも、おかあさんを求めて泣いた夜があったはずなんですよ。そんなものはもうないんだよっていう世界観、クセになります。

 

「キュルルちゃん爆誕!?」(いの)

・キュルルのおっぱいがある日突然成長するんだけど、実は……という話

・授乳合同のようなぶっ飛んだギャグ要素と、火の鳥合同みたいな破滅的な雰囲気が、見開きに同居しているような、ゾクゾクするお話でした。もしかして火の鳥合同のお話とゆるくつながってます?

 

「情報メディアとしてのジャパリパーク」(やぎこ)

・評論。以下要約

2に登場するキュルル、フレンズ、ジャパリパークの、情報を伝達するメディアとしての役割に注目すると、ジャパリパークはキュルルの登場によって博物館性を完成したといえる。なぜならばキュルルは、ジャパリパークに「展示、収集、保管」された施設やフレンズから「教育的効果」を受け、自らも発信する主体になることを受容したからである。さらにこのキュルルの発信能力は、かばんの「調査研究」を広め、パークが文明を再獲得することに貢献するだろう。

・この文中の「メディア」というのは普段我々が使う「メディア」とは違うのか? ということを意識しながら、慎重に読みました。それでも完全に理解できたわけではない……。キュルルを評論しようとした、さらにあの騒動に言及しようとした、そのコンセプトはとてもいい思います。もっと一緒に議論しましょう(謎の上から目線)。

・タイトルは少し違いますが「メディアとしての博物館」という本があって、こっちは梅棹忠男という文化人類学の研究者が80年代にまとめた本です。この人は「文明の生態史観」という論文が有名です。さらにこの人は、今のIT社会/ICT産業が台頭するずっと前に「情報財」について議論していました。キュルル合同の話からは脱線するけどおすすめです。

メディアとしての博物館

メディアとしての博物館

 

 

・そろそろ私たちは、あの騒動について語るーー2の炎上にまつわるめちゃくちゃな騒動で受けた心の傷を語り、受け入れるということが必要になってきているのではないでしょうかね。

 

「キュルル・リフレイン」(鳥麦康人)

・キュルルが2000年前の事件直後にタイムスリップする話

・例の事件を経てキュルルが抱えてしまった苦悩が、まっすぐに描かれていて、心を動かされました。個人的に、こういうような生の肯定と苦悩の昇華に弱い……!

 

「モノクロの視界から」(丁_エスキチ)

・2000年前の事件のあとの「少年」が傷を受け入れる話

・そうなんですよ、鳥麦さんのと同じで、心の傷の受容や昇華といったお話が私には効くんだ……! 少しずつ閉園に向かうパークの無常感がクセになります。そして、キュルル(少年)が年を重ねて大きくなった時の姿というのを想像するのは楽しいですね。

 

追想」(パセリ)

・2000年前の事件直後の「少年」とカラカルのお話

・全体を通して淡い表情が好きです。ネクソン版や舞台版のネタもあり、読んでいて楽しかったです。最後だけカラーなの、ずるいわ……

 

「犬とネコ」(ウェルト)

・事件後、「少年」とイエイヌがお話しする話

・「車内」というような、時間も空間も限定された空間で行われる会話劇がとても好きです。演劇やショートコントっぽさを感じます。表情や顔の角度を効果的に描き分けていてすごいなと思いました。

 

(田中草男)

カラカルがキュルルの髪を切るお話

・「そうやって切るのか……」と思いました(笑)。キュルルに絵を描くよう求めるところのカラカルが美しいです。これはもう告白だよって思いました。ずっと寄り添っていて欲しいな……。

 

「少年期の終わり」(たると)

・成長したキュルルがイエイヌに会いに行く話

・このお話が、全編の中でいちばん未来を扱ってるんでしょうか。旅立ちの前夜の独特の緊張感、寂しさがにじみ出るお話でした。かばんとサーバルが旅に出たように、彼も旅に出るのだろうなと思いながら会話を追いました。イエイヌに託すという選択は、二人の関りを強めるようでもあり、イエイヌをまた永遠に待たせてしまう業を重ねることでもあり……

 

これで巻頭から巻末まで読んだことになる。感想を書くのにほぼひと月の間がかかってしまった。その間やる気があったりなかったり、自分で創作をしたりしていた。

流し読みしていたら読み飛ばしてしまうような要素も、「感想を書くんだ」という気持ちで読むとたくさん拾うことができた。やはり、書かれた作品に真剣に向き合うということは良いものなのだ。それがアマチュアであっても。

こうやってたくさん誰かの作品に感想を書くと、まるで自分が口だけ評論家みたいになってしまったような気分になる。 この気分に感じる居心地の悪さもいつか書き下してみようと思っている。

 

とてもいい本だった。中にはこういう妄想俺もしてたよというお話があり、なにこれ想像してなかった尊いというお話があり、とても救われるお話もあった。火の鳥合同や職員合同と同じように、このような骨のある合同誌が読めることが嬉しい。

 

C97感想記事は2回で終わるはずだったのだが、まだ職員合同とKyokoさんの一連の本の感想が書けていない。職員合同を全部読むなんて思うと卒倒する。まぁC98までにのんびり読めたらいいかな。

C98に申し込んだ

C98に申し込んだ。

例年と違ってGWの開催。参加締め切りまであと二日だった。滑り込みのタイミングとしては丁度よかっただろう。

 

結果的に申し込んだが、とても迷った。特にクレジット決済の画面で、とても迷ってしまった。

C98のサークル参加費は8,000円。これに手数料がついて9,100円。

1万円は大きいお金だ。多分このせいで1月はもう贅沢はできない。

正直言って、働いてもいない身分で、奨学金で、1万円近いお金を出して趣味に興じることは、あまりほめられたことではないと思う。

なぜ申し込んだのか。なぜ申し込んだのか。

 

・ひとつは、けもフレにいつまでもハマっているか分からないからである。次の冬にはオタクをやめているかもしれない。今は幸いにして、四六時中けもフレのことを考えてそれが苦ではなく、周りにも同人活動に積極的な人たちに囲まれている。ひょっとしたらこんな状況はとても恵まれていて、明日突然界隈が殺伐とした地獄の焼け野原になるかもしれない。そうなってしまったあとに、「C98に参加しておけば、せめて申し込んでおけば」と思いたくは、ないのである。

 

・もうひとつは、学生の身分でコミケに飛び込めるのは、次が最後だからである。C99は次の冬だが、おそらく(心が壊れず、就職も決まっていれば)修論でヒィヒィ言わされているはずである。次の春を逃せば、次からはコミケは社会人として参加することになるのである。社会人はよく「金はあるが時間がない」という。みんなそういうので、ほぼそうなのだろう(学生からしてみれば、時間はあるが金がないので、ただネットサーフィンをするだけなのであるが)。もしかしたら、これから死ぬまでの間で、今が一番本づくりに時間をかけられるのかもしれない。

 

・さらに、もう一つ私が初夏ごろにお披露目しようとしている企画がうまいこと進めば、GWの時期で宣伝ができるだろうと計画している。これについては後日、また改めて、やる気が残っているうちにまとめてみたい。今年は「やりたい」ことが少しでも「できる」ように、自分の理想像と手と実力をチューニングする年なのである。

 

・最後には、自分がオタクとして今後の人生を全うできるか、試すためである。今の私のけもフレへの没頭が、人生をかけたものなのか、それともモラトリアムの逃避で、仕事が始まれば卒業してしまうようなものなのか、今年で決着をつけなければならない。

 要は、私はこれからの人生を、空想とともに生きていくことができるのかどうかを、ささやかな形ではあるが、占うのである。これによって、この春の就活も、今後のキャリアプランも、おのずと定まるだろう。

 空想とともに生きる(なにがしかのコンテンツ産業に就職する)という選択肢については、またいつか書き出してみたい。そのくらいには、私は人生の選択という段階にアニメを紛れ込ませようとしているのだ。もしアニメが仕事にならないなら、趣味でとどめておくのがいいならば、そろそろ覚悟を決めなければならないのだ。

 

 申し込んだが、冷静になると不安で震えそうになる。既刊が微小なりとあったからいいものの、小説なんて誰が手に取ってくれるのだろうか。今から絵を練習して何になるのか。GWに東京に遠征する交通費はどうするのか。そもそも春は就活なのに。まぁいい。もう転がり出してしまった坂道だ。これ以上の出費を最大限に警戒しながら、冬が明けるのを待とう。連載している小説が春になったら、適当に整えて製本するのだ。

 

C97感想戦 1/2

C97が終わった。けもフレは1日目の12/28だった。

 

たくさん同人誌を買った。ひとつずつ紹介していこうと思う。昼にざっとツイートしたのだが、文字数制限で書ききれなかったりしたので、こちらが完全版になる。

 

「おやさいやだやだなのだ」(こめっと村)

圧倒的にかわいい絵柄のほっしーさんの純度100%可愛い絵でできた絵本(絵本だからそれはそう)。子供にも読めそうな、絵本テイストの創作にけもフレの可能性を無限に感じるのだ。

https://twitter.com/super_PCSK/status/1210716509124710400

 

「KEMONO POSTS」(ナリモン水族館 広報部)

色んなフレンズのインスタグラム風イラスト集。本のデザインが表紙から中身までオシャレに決まってて良きです~! ハッシュタグにそれぞれの投稿者のセンスを感じました。

https://twitter.com/stylecase97/status/1205638533106601984

 

ツチノコちゃんにかわいい服を着せたい本」(でふにあ)

ツチノコとスナネコがかわいい服を着るお話。恥ずかしがってもじもじしてるツチノコ可愛いよね。トーンとかも丁寧に貼っててすごいなって思いました。俺も描きたくなるよおおおお

 https://twitter.com/daphnia414y/status/1210535856135475200

 

「The Sword Nothing」(金星航天局)

ずっとウェルトさんがツイで連載していたイラストがまとめられて絵本になったもの。絵の塗りがすごいなっていつも思ってます。行間を読む(絵本だぞ)のが結構大変だけど、味わいながら読んでます。キュルルの武器出しスキルすき。

https://twitter.com/corpsmanWelt/status/1210560472321118209 

 

「フレンズがいろいろたべるだけのうすいほん」(翌子)

フレンズがラーメンやハンバーガーを食べてる一枚絵イラスト集。とにもかくにも圧倒的画力……圧倒的画力! 目の感じも、口の感じも、躍動感を感じてひたすらにすごいなって思いました(こなみかん)。サイゼ飯三人組好きです。

https://twitter.com/yokuko_zaza/status/1210201554898128897 

 

「マー2 アタック! 他」(ナマジン)

PPPメインのギャグマンガ集。PPPは芸人定期。可愛い絵柄でメタネタやらドリームなクラブやら入り乱れていて、クスクスしながら読みました。目がグルグルになってる顔、クセになりますね。既刊も面白かったです!

https://twitter.com/eenamazu/status/1209972087911268358 

 

「マナヅルちゃんがスマホ片手にパークをまわるお話」(猫の総菜屋)

マナヅルちゃん視点に整理されたフルカラーイラスト集。こういうコンセプトいいなって思ってます。この口が逆三角になってる顔が好きなんですよね(三△三)。これだけフルカラーイラストを作るの、大変だったと思います……お疲れさまでした! オイナリサマの絵好きだなー

https://twitter.com/nekonosalad/status/1207973226984267778 

 

MMDけもフレモデル合同2」(けものづくり)

mmdモデルデータの頒布と、モデラーがメイキングや漫画を寄稿した合同誌。すごくいい企画だなあと思ってます。モデルのメイキングの話はとても参考になるし、mmdで作られた漫画は、こういう表現もできるんだなという刺激になります。というかこのクオリティの3Dデータが同人で存在するの、本当によくわからん(褒め)

 https://twitter.com/KFSCP/status/1209098415524593665

 

「はたらくアニマルガール」(ビーバーくみあい)

独特のセンスで魅せるいなださんの、「はたらく」フレンズの短編集。あとがきにあったように、アニマルガールの「自治」と「社会」の在り方を説得力を以て色々と考えさせてもらえました。カピバラさんのストーリー、この絵柄でアニメ化しないだろうか……

https://twitter.com/inada_roku/status/1209881730951213056 

 

「Patchwork Box 他」(鳥餅プロダクション)

ととりさん、もちまんさん、シックスねおんさんらによる短編集。現パロ好きだし、ちょっと上の年齢設定のフレンズのお話もどこかで読んでみたかったので、ドンピシャでした。「帰省」の雰囲気好きです。既刊のジャガスナも良かったですー!!

 https://twitter.com/TTR_OTI/status/1207709163989504005

 

「ココはわたしに任せなさいっ!(前編)」(丈屋工房)

ふぁんどりぃさんの、舞台版時空の小説。(舞台時空の創作もっと流行って!)前作から続いて活躍するキャラクターに加えて、ドタバタなオイナリサマやラッキービーストも闖入して、これからどうなっちゃうの~!? という感じでわくわくしました。後編期待!

 

「東京ツチスナ」(まんぞく日和)

西谷さんの、ツチスナ現パロ小説。表紙素晴らしいな。素晴らしいです。私もツチスナ現パロは結構妄想する人で、そうだよね、こういう関係性が良いよね、ツチノコもスナネコもこういう弱さがあって、そこをお互いに補い合って、特に何も事件の起こらない現代社会で、穏やかに生きていて欲しいよねって思うのです(変質者)。

 https://twitter.com/yukouki17/status/1207917115295948801

 

「第三者記憶の葉会議」(スイカ

ケムリクサ本で、表紙に乙女心を完全に鷲掴みにされてしまった本。きっと本編の裏で進んでたであろう上の姉妹のやりとりや心遣いに触れて、ほっとするものです。三姉妹の性格が極端に分かれてて、それで調和してるのはいいよなあって読んでて思ったのでした。あと素人感覚ですが、コマ割りすごくうまいな……

 https://twitter.com/rapisrazuli/status/1210233153316483072

 

「フレンズたちの誕生日」(ぐるぐるかおす)

フレンズたちの「アイデンティティの再発見」に注目した短編集。彼女たちは何のために知性を持って生まれ、その知性を何に使うのかという問いに向き合うお話たちです。一度自分もやろうとして挫折したテーマなので、ああいいなあ、こういうのが読みたかったなあと思いながら読んでいました。ツチノコとスナネコはいいぞ。

https://twitter.com/maik_ata/status/1209807937457152000

 

 

こういうときに感想をなんとかひねり出そうとするのだが、無理やり出そうとしてちぐはぐになっていないか、稚拙な感想で自分の程が知れてしまうのではないかと、ちょっと不安になったりもする。

 

そして、今回告知ツイートを引用RTする形で感想をツイートしてみた。作者にとどくといいなという気持ちと、あんまり目立ちたくもないなという気持ちが衝突して、いまいちどうしたらよいのかは分からずにいる。 

 

実はここで感想を書ききれていない同人誌がまだある。「ずっといっしょに」(和歌山県下津漫画制作同好会)と「キュルル合同」(常夜茶会)と「パークスタッフ合同」(温狐屋)である。また後日、しっかり読んで感想を書いていきたい。

和服の空間

ヒトがすなるブログといふものを、我もはじめてみむとて、すなり。

このブログは、Kumano Dorm. Advent calendar の20日目の記事でもあります。何卒。

19日目はブヤコフの記事( https://bujakov-maximovich.hatenablog.com/entry/2019/12/29/172452?_ga=2.67517201.1436448565.1577600882-1822084075.1577600882 )、21日目はたくてんの記事( http://takutenten.hatenablog.com/entry/2019/12/31/015408 ) です。どちらも愛すべき先輩たち。

 

私は4年前の2015年に熊野寮に入り、今年2019年に退寮した。学部1年から4年まで、ちょうど4年間在籍していたことになる。

決して楽しいだけの在寮期間ではなかった。現在は同じ大学の大学院で院生をしているが、熊野寮が楽しいだけの空間であったならば、もう二年熊野寮に住み、炬燵にささりながら友人とおしゃべりして過ごしていただろう。

12月の初めにこのアドベントカレンダーに応募した時から、何を書こうか薄ぼんやりと考えていた。「退寮を決めた理由」でも良かったし、「熊野寮で知り合った愉快な人列伝」でも良かった。締めきりが迫って「ブロックを牽引するつもりで、ブロック自治をぶち壊しにしてしまった話」を書こうと思っていたが、つい先日ちょっとしたことがあって、少し気分が変わった。今日は「熊野寮で和服を着ていた話」を書こうと思う。

 

2015年の春のことだ。指定された部屋に行くと、汚い炬燵にちょっと年上の男たちがささっていた。彼らのおしゃべりは知識とジョークと下ネタに富み、ただひたすらに面白かった。夜が更けるまで馬鹿話に花を咲かせ、炬燵で寝ていたら3日で喘息とインフルエンザを患った。この時出会い、同じ部屋で住むことになった一人の『先輩』が、私を和服の道に引きずり込んだ人である。

 

『先輩』はなんというか、旧制高校が好きな人であり、なおかつ教養主義者だった。雑談の裏には圧倒的な読書量と、自分で考え抜く地頭があった。それらを思想という一本の糸でつなぎ、しょっちゅう下ネタをぶち込んで、欲望の赴くままに、頭の回るままに夜通ししゃべりつくす人だった。夜が更けるとポテトを揚げた。ドイツ語はできなかった。

私はあっという間に『先輩』に憧れ、尊敬するようになった。さて、何かに憧れ、近づこうとするとき、形から真似してしまい、中身が全く追いつかないということが稀によくある。読書量を増やそうとして、図書館で小難しそうな岩波や中公の本を借りては、読まないまま延滞して返した。一生懸命世間を喝破しようとしては、自分の頭がスカスカなことを自覚した。そんな中で、形を真似するだけで良かったものがある。和装だ。

『先輩』は旧制高校が好きな人であり(当時の京大は旧制三高にあたる)、和服、下駄、マント、制帽といったものを一式揃えていた。私が入寮した時彼はすでに4回生だったが、数年前は和服に下駄でキャンパスに通っていたらしい。そんなことを聞いた私は、和服を着てみたいと思うようになった。折しも京都という土地は「祇園祭」「本宮祭」といった、規模の大きい夏祭りが残っており、何の不自然さもなく和装に手を出すことができた。さらに近年は観光客の増加に伴って、街中を着物で歩き回る人が増えていたし、商店街でも簡単な浴衣ならすぐ手に入るようになっている。和装へのハードルは、限りなく低かった。

 

そんな中で、初めての祇園祭がやってくる。『先輩』は、私と、同期入寮した友人の一人を連れて、中古和服を取り扱う小さな店に連れて行った。そこで私は、麻生地でできた紺色の浴衣と、安い角帯を買った。これがすべての始まりである。私は買ったばかりの浴衣に帯を締めて、若者でごった返す祇園祭に、大学で入ったサークルの仲間と繰り出した。初めての着付けだったので、帯がしょっちゅう緩んでは締めなおすという、大変みっともない姿をさらしていたと思うが、一緒に歩いた仲間の多くは、私の格好を珍しがってくれた。おおむね好意的だったと思う。この小さな成功体験は、私にとって宝となった。

 

余談だが、私はいわゆる「イカ京」である。これももう死語であるか。服装に全く気を遣わず、それでいて見た目が汚いのを気にしている、恋愛市場における典型的な弱者だ。ズボンなどダボダボのボロボロを履きつぶすし、シャツも高校時代のお下がりや、スーパーで適当に買った安いチェックシャツだ。冬服などさらに悲惨で、サークルで買ったパーカー以外にロクなものがなかった(さすがにやばいのでユニクロの3000円セーターを今冬に買った)。洋服屋に行って、服を見繕うという経験をほとんど積んでこなかったのだ。そんな私の洋服のセンスは壊滅的で、心だけ恋を覚えても、容姿がまったくついてこなかった。

そんな私にとって、和服を着ている姿を褒められたことが、どれだけ嬉しかったか。今まですれ違う知らない人にどう見られているか、笑われていないかビクビクしながら伏し目がちに過ごしてきたオタクが、初めて「自分の外見を人に見られること」と調和できたのだ。

 

初めて祇園祭に浴衣で突っ込んだ日の夜は、晴れ晴れとした気持ちで寮へ帰った。履きなれない下駄のせいで靴擦れを起こしかけたが、そんなことは気にならなかった。

 

それから、気が向いたときや洋服の洗濯が溜まっている時には、和服を着て外に出るようになった。観光客が街中にウヨウヨいたので、和服で出歩いてもそれほど奇異ではなかった。袴を履かなければ自転車にも乗れなかったが、学校と寮の往復くらいは徒歩でも問題なかった。和服で授業を受けていると、フランクな教師はちょっと構ってくれたりした。歩いても乱れないような帯の締め方を感覚で覚えていった。少しずつ、私のことを「和装の人」として認識してくれる人が寮の中に生まれていた。

 

京都のクソ暑い夏が終わりクソ寒い冬が始まると、浴衣ではやっていけなくなった。そこで厚手の『着物』を入手すべく、京都の街を彷徨うことになった。学生のお財布などたかが知れているので、新品の和服を買う気はさらさら起こらなかった。中古の和服屋を巡ったり、観光客向けのチャチな和服を扱う店をのぞいたりしたが、結局は縁日の屋台で投げ売られているボロ寸前の和服を買うことに収束した。

京都の北野天満宮や東寺では、月に一度大きな縁日が開かれる。そこでは粉もんや射的のようなテキ屋が並んでいるが、アンティーク雑貨や地元の漬物など色んなものも売られている(個人的に押してるのはアンティークの軍刀)。そのような出店の中に、中古の着物を売る店もたくさん並んでいるのだ。5000円や10000円という値を付けて綺麗な着物を丁寧に売る店もあれば、売り場に平積みして3枚1000円で投げ売りしているような店もある。貧乏学生にとって、1000円で服が手に入るのは大変魅力的だった。質は確かに悪かったかもしれないが、和装素人にはそんなことは分からなかった。

 

さて、問題なかったと書いたが、和服で外出するのはやはり大変だった。自転車に乗れないというのが一番の問題だった。自転車はおろか、走ってもそうだが、和装は激しく動くと乱れてしまうのだ。和装で外出するときは、よほど時間がなければならなかった。

そんな中で、熊野寮の中で和服で過ごすというのは、とても快適だった。外出する時ほど気を遣わず、さして大きく移動するわけでもない熊野寮の中という空間は、和服で過ごすにはぴったりだった。温泉宿の中のようなものだ。外とは言えず、かといって裸で動き回るには都合が悪い。そういう時に、下着の上に一枚羽織って帯を締めるだけで、何やら過ごしよい恰好が爆誕するのである。他に熊野寮の中で動き回るのにふさわしい恰好というと、高校で使っていたジャージとか、洗い晒した時代遅れのTシャツとか、そういう布切れである。中古の薄汚れた和服もまた、そういう場にふさわしい布切れとして機能していった。

 

和装が板についてくると、やがて高くてきれいな和服に手を出したいと思うようになる。1000円の和服なんてボロ布じゃねえかとうそぶきながら、一着3000円や5000円で売られている和服を物色するようになった。出店で和服を見ていると、店主から話しかけられることがよくある。いやむしろ話しかけてもらって、そこから買い物が始まるという方があっている。和服は女物と男物と大きく分けられるが、男物は流通量が少ないのだ。そのため、店に行っても男物がそもそも入っていないことが多い。それを回避するためには、店員さんに「男物入ってますかね?」と話しかけるのが、もっとも効率が良い。

 

最終的に、3000円の着物や5000円の羽織を買い、10000円以下で袴を何とか揃え、トンボコートを即決で入手していた。基本的に中古であるので、出店で5000円も出すと結構マシな和服が手に入ったと思う(騙されているかもしれない)。卒業式にはこれらの和服をフルで着て臨んだ。例年コスプレで出席することが名物になっている本学の卒業式だが、その本分は『自分』という存在の価値を確かめることであると思う。私にとっては、和装こそが大学4年間で獲得した自分の価値であった。

 

今は寮にはいない。ありきたりなワンルームマンションで、夜はずっとテレビを垂れ流しながらネットサーフィンをしている。自分以外誰もいないので、夏は下着姿、冬は寝間着代わりのジャージで過ごすようになった。周りには歩いていけるようなコンビニさえない。この部屋を出れば、食堂も廊下もなく、圧倒的に外の世界がある。あの温泉宿の中のような、修学旅行の宿のような空間があったからこそ、私の和装は成立したし、育まれていったんだなと今になって思う。

洋服に金を使うようになったかと思えば、寮と比べて家賃がほぼ十倍になったので、財布はさらに物悲しくなった。大事に履いたズボンには穴が空いた。そろそろユニクロかGUに行かなければならないだろう。

 

和服たちは、引っ越しの時に詰めた段ボールの中で静かに眠っている。